ほんとうにたくさんの人が死ぬ。
生まれる人もたくさんいるのに、
そのことを忘れそうになる。
どこかでひとり生まれたからといって、
だれかが死んでいいということにはならない。
でも、人はかならず死ぬということについては、
ひとつの例外もない。
こんなことを書いているぼくも死ぬし、
「そうだな、イトイもそのうち死ぬな」
と読んでいるあなたもやがてはかならず死ぬ。
そういう意味では、みんなみんなおなじだ。
お墓の前で泣かないでくださいという歌があった。
そこにわたしはいません、ということばが続く。
あらま、亡くなった人がいない場所で、
ぼくらは祈ったり泣いたりしてきたのか。
そう言われても困るとかも思ったし、
たしかにそうかもしれないとも思う。
ではどこにいるのかと考えたくもなるのだけれど、
どこにいようがいるまいが、かまわない。
その人が生きたせいで、ここにあるもの。
そいつが、生き続けているのだ。
こどもがいたら、こどもはまさしくそういう存在だ。
その人が買ったもの、つくったもの、書いたもの、
その人が語ったことば、怒ったもの、悲しんだもの、
その人が抱きしめたもの、その人が育んだもの、
その人が別れたもの、その人が歩いた道、
その人が吸った空気、その人が祈ったこと、
すべて、そのまま、その人が死んだからといって
いっぺんに消えたわけではない。
そして、ものも、ことばも、場所も、思いも、
その人が死んだあとも、続きを生きている。
それを「あの人は生きている」と、言っていいと思う。
お墓にいようがいるまいが、どこでも続きをやっている。
ぼくが死んでも、そうなると思うと、なんだかうれしい。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
生きているうちは、じぶんがじぶんの続きをやっている。






